昭和48年05月06日 朝の御理解



 御理解 第25節
 「信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。」

 ここの大きな信心が良いと言う。キリスト教とか仏教とかというのは、世界を代表する宗教であります。沢山の信者を擁しておるし永年の歴史と共に、揺るぎのない教団力というのもある訳です。そういう信心をしておる事が大きいと言う事じゃない訳ですね。金光様のご信心等は、ようやく百年そこそこの新しい宗教です。
 段々大きくならなければいけないと言う様な意味じゃなくて大きな信心は、矢張り段々大きくなって行くと言う事だと。金光教はまだ百年ぐらいの信心じゃから、小さい信心という意味じゃない。というて大きな事を言うたり、願うたりしておると言った様な事でもなさそうなんです。それは段々自分の事から、自分の周辺の事それこそ天下国家の事まで、祈らずにはおられない。これは確かに信心が大きいですね。だから今日はそういう意味と違った、それとてもです、初めから中々祈れませんです。
 只自分の事ばっかり。それは口で唱えるだけならね、拝詞を皆さんが毎日唱えておられる。拝詞の中には天下国家のことが祈りの言葉として御座います。世界真の平和とか、世界総氏子の身上安全と言った様な、言わば大きな願いであります。問題はそれが自分の事を願うのと同じような、よりもっと大きな力をもって祈れるようになる言うのですから、一時二時で出来るような信心じゃない。段々そう祈らずにおられないというものが、身に付いてくると言う事ですね。
 ですから私は今日思うのに、そういう信心が段々育って行くと言う事の為に、迷い信心ではいかぬ。一心と定めいと仰っておられる。迷い信心ではいかぬ。一心と定めいと。迷わずしかもそれが、一心に定められて一心に進んで行くという中にです。段々信心のお育ても頂きおかげも受けて行くと思います。昨日壮年部会で、本当に何時の壮年部会でも、実感するのですけども。こんな素晴らしいお話が出るのに、皆んな壮年部会にはどうしてこんなに少ないだろうかと言うて。
 壮年部会だけが会費を取らんから、治安が安っぽく見られとるのだろうと、言った様な話が出た位で御座いました。壮年会には会費なんか取らんのですよね。だから会費も取らんごたる会じゃから、大した事はなかろうという風に、みんなが「タカ」をくくっとるのじゃなかろうか言うて話した事ですけども。本当に、楽の信心の、ギリギリの話がいつも出るのです。どうして皆さんが出て来んだろうかと思うですね。素晴らしいですそれは。もう本当に十一時で止めんならんと思うても止められん。
 もうこれでと言うて打ち切っても、また尚話が出るような素晴らしい会合です。中で秋永先生がこう言う様な発表をしておられました。今朝参りを止めておられる。いろいろな信徒会長としての御用、又は筑水連合会、又は松影会なんかの、いろいろの御用がありますからその方だけでも、相当のそれだけでも十日間は出歩かんならんと言う様な事を言っておられましたが。
 今度私が朝参りを始めた時からが、本当のものだろうとこう言っております。それで私が申しました、それは秋永先生、いや又ね又同じですよて。けども又今度止められる。そして今度私が始めた時が本当のものだろうと言う様に、本当のものから本当のものを求め続けるですから、ここは繰り返しの事ですよと。秋永先生の信心を見ても、熱心に朝参りを夫婦でされる。だからと言うて止めるからというて、信心を止めるとじゃない。それは一心と定めておるものがある。
 一つも信心は落ちない。信心を止めると信心をガタッと落とす人がありますよね。だから秋永先生の場合は、そうじゃない。もう決して落とさない。そんな話が済んでからここで、一人で御祈念させて貰いよる時、その事をふっと思うて、私がまた同じ事ですよ。例えば一年なら一年、又朝参りが今度出来るようになったら、又そういう止めなさるような事があって、又今度始めた時が本なものであろうと思い、そういうふうに言われる事になってくるだろうと言った様な事を話しましたけれども。
 その事を御神前で思わせて頂きよりましたらね、昔遠足なんかに行く時には、リュックサックなんかは担いませんね、昔は何か白い布に包んでから斜めにこう担うてお弁当を。そして行ったもんです。わらじ履きで。そういういわば、旅行者の姿と申しましょうかね昔の。歩いていると一つの目的に向かって旅行しておる。そんな姿を頂いた。そして折角この辺に来たのだから、まぁ名所古跡と言う様な所を回って、いうならば道草を食うて行きよる。と言うて決して後戻りはせん。
 道草は食うけれどもです、その次には又そこの所を一通り見物が終わると、また次のコ-スいわば前進のコ-スを辿らして貰う、と言う様な御理解を頂くんです。それはもう皆さん帰られてからでした。ははぁ成程と思わせて頂きよりましたらね、そこの道草を食う、ここの所をですいうならば、泣き泣き辛抱にと言う所だと。いうなら我慢我力かもしれませんねこの所は。
 けれどもこの辛抱こそが、身に徳を受ける修行じゃと仰るです。昨日私が頂いた。してみると秋永先生のような生き方は、お徳を受けられないかというのじゃないです。より完璧ないうならば、水も漏らさぬお徳を受けて行く道を、まっしぐらに進むと言う事なんです。ですから私は大きな信心とはね、そういう信心だと思うです。大きいと言うか遠い道のりと申しましょうかね。
 だから同じ所をぐるぐる回っとらんのです。それは一時そこで道草を食う所がありますけどもね、一寸ここで弁当が軽うなったり、無くなったりする事になると、又是は早う行かにゃ遅うなるぞと言った様な催しが、心の中にはじまって、朝参りを又始めると言うのです。だから後戻りでは決してないわけです。だから信心を進めて行くのですけれどもです。私は本当に素晴らしいお徳を受けて行くという人達は、そこの所が違うのじゃないかと思うですね。是は私自身の事を思うても良いです。
 私どんが場合はそれが全然なかったように思うですね。それは本当にそこで一服という様な時ががあるけれども、一服はさせて頂きましてもです、信心の道草を食うという所は無かったように思う。ですからここん所をです。泣く泣く辛抱。その泣く泣く辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃと言う事になる。大事な事です。大きな信心と言うのはね、そのようにして段々段々一里の道が十里、十里の道が百里、百里の道が何百里と言う様なですね、道のりを段々辿らして頂くのですから。
 是は大きくならざるを得ない、必ず信心は大きくなって行く。同時に秋永先生の信心の場合は、ここではその迷い信心ではいかんと仰る。迷い信心ではサラサラない訳ですよね。迷いはしない。けれどもとっても良か信心しよっても、この頃迷いが起こったと言った様な事を言ったり。信心をストッと落としてしもうてから、又始めると言った様な人もあります。だからそれでは愈々詰らん。
 私共信心を続けて行くうちにです。ここの辛抱をしぬいたら、次の心の開けると言う事は、どんなに素晴らしい事か分からない、楽しいものが辛いけれども、苦しいけれども生まれてくる訳なんです。ひたすらに道草を食わず、ひたすらに前の方へ前進していく。さぁそこで前進して行く一つの過程なんです。只旅行ならば、只歩いて行けばよいのですけれど、信心の道を辿らせて貰うのですから、その過程がどのような辿り方をさせて頂くかという事なんです。
 どの様に自分というものが、より改まりより磨いて行くかと言う事。より力を受けて行くかと言う事なんです。昨日、教主様の歌集を読ませて頂いて、抜粋させて頂いた、幾つかを聞いて頂きます。「口軽く、言いし言葉が元となり、起きし誤解を聞きつつ思う」「誤解をば、説かぬがための言い訳が、更に誤解を深めたりと言う」「詫びる心、言葉とならば自ずから、解くる誤解を吾は思うに」と言う、三つの歌です。自分の迂闊に言った事が、一つの誤解になったと。
 だからそれはこういう訳でしたと言うて、言い訳をしよったら、尚更その誤解を深める事になった。さぁここで一つ本当に詫びる心、言葉とならばと言う事ですね。黙ってはぁ本当に、自分が口軽な事を言うて、相すまぬ事じゃったという心と同時に、それを詫びるとならば自ずから、解くる誤解を吾は思うにと。こう言う様な所がです、私は段々身に付いてくる。例えばですよ信心を一心に迷わず進めて行くんです。道草も食わずに、段々進んで行くと言う事はどう言う事か。
 只一生懸命参り寄れば良いと言う事でなくて、そういう様な事が一つ一つね、分からせて貰い自分の内容というものが分からせて貰い、改まる所は改めて行く。本当にサラサラと詫びねばならん所は詫びる様な素直な心が、段々出来て来るという自分というものを見極めて行く。「自らを守らんがため力みつつ、他をあげつらい責めいる吾は」自分を守ために、もう力みながらね自分を守ために、人の悪口をあげつらっておる。言うておるという事です。自分を少しでもよくするために、人を悪口を言う。
 「寛容の、足らざる吾れの言いぶりの、筋こそ通れ人の許さん」成程自分の言うておる事は、言い振りの筋こそ通れ筋は立っておる。自分の言う事は本当ではある。それで寛容が足りないものですから、受け入れる大きな寛容な心がないものだから、人を許せずに結果は責める結果になる。自分の事がそれは本当であっても、こんな事ではけないと猛反省をなさっているお歌でしょうね。「一歩だに、譲らぬというは頑固なり、さわ知りいつつ譲りたくなし」
 分かっておるんだ自分で。ここで自分が一歩譲っておけば、譲る事が本当だと言う事が分かってるけれども、頑固なもんだからさわ知り居りつ譲りたくなし。こう言う所が、愈々馬鹿と阿呆になる稽古をさせて頂きながらという訳なんです。
 「偏見の、とりことなりて居る吾に、気づきしみじみおどろく吾は」
 「好き嫌い、それぞれに持つ人間の、悲しさを思うよしあしはおきて」
 「吾が欲に、根ざせるものを人のせいに、せるあやまりに気づきおどろく」
 同時に驚くと結局は自分の汚い欲が、何時も根本になっていると言う事ですね。それを例えば損をしたと言うのは、あれのせいにすると言う様なそういう心に気づいて、自分ながら驚く事があるというわけです。好き嫌いそれぞれに持つ人間の、悲しさを思う善し悪しはおきて。本当に誰だって食べ物だって、人間だってあれはもう虫が好かんというのがあるです。けれどもそういう嫌いなものを、却ってここでは大事にするとか。
 嫌いな人を却って大事にするとか言った様な、生き方を私が身につけて行く事をよく話させて貰うが、そこから嫌いであった人が、却って好きになってくる。いやその嫌いであった人が、私のために、大変なってくれると言う様なおかげを頂いてゆくという訳なんです。偏見のとりことなりている吾に、気付きしみじみ驚く吾。それに自分が気付いて本当に驚くばかりに驚く、そういう心が尊いのです。
 偏見であってもそれは人間じゃけん当たり前といったら、そう言う事で迷わず失わず、毎日参りよりますと言うたって、それはいうならば大した事はないと言う事。例えばここに、教主様の歌を九つ挙げましたですね。こう言う所に、お互いが本気で取り組ませて頂いてです。その一つ一つが楽になるような、おかげを頂いて行きながら、この道を一心に迷わず歩いて行かなければならないという訳です。
 こう言う様な事は、全然そのくらいの事は人間じゃけん、当たり前でもしそれが十年二十年、朝参りが続いたとてです。成程それですから、おかげは受けましょう。けれどもお徳を受けると言った様な、自分が愈々高度な信心に進んで行く事にはならないのです。それは幾ら何十年続けて参りよっても、一つも進みよらんから、そういう信心は堂々巡り、やっぱり同じ様な事を何時もお願いせんならなんと言う様な信心です。
 ですから大きな信心とは迷わず失わず、例え道草は食うても後退りはせん、やっぱり前の方へしか進まん。しかも、進んでいく具合がです。例えばこの様な所に自分というものを、本気で見極めさせて頂いて、改めて苦しかった事が苦しくない、有難くそれがやって行けれるようなおかげを頂いて行ってこそ、それは大きな信心と言う事になり、行き詰まりがない。大きな信心とは、行き詰まりのない信心だと言われておりますがです。そういうおかげを頂いて、身につけていく事である。
 昨日石井喜代司さんが発表しておりましたかね。自分の心の宮を大事にする事だけだと、信心はいうなら昨日の朝の御理解です。自分で自分の心の中をね、自分の心の中を見極めながら自分の吹き鳴らす、いわば尺八に聴きとれる程しに、我と我が心が拝みたい程しの心になって行く以外はない。決してそれではないと言う様な事を言ってました。そすと例えばここの合楽の神様が、お宮がこの様に立派になったら、お供え物もどんどんこんなに沢山上がって立派になるでしょうが、と言う事を言っていますですね。
 心のお宮が立派になればお供え物は、しかも天地の親神様という方は、決してやり惜しみやら又は、恩着せをなさらない。もう当たり前の事として淡々として下さるのですから、このおかげを頂く事だと。もうそれを本当に力説してるです。
 昨日の朝の御理解が、そうでしたでしょう。自分の心の中から発して来る所の、喜びというものを聴きとれ聴きとれ、そういう状態になったら、人が又聴き惚れる程しの事になってくる。そんな話をさせて頂きよる時、私は丁度私の前に真っ黒い陶器の茶碗があった。それを頂くのですよね。喜代司さんという人はね、自分が楽しょう言う様な事は、全然考えてない。もういつも苦労であってよいと思い込んでいる人ですね。
 もうどんなに馬鹿らしかったっちゃ損したっちゃそんな事なんか、意に介しないと言った所があるんです。いつも自分は真っ黒になって働いとってそれで早う、こういう苦労から解脱したいとか、脱却したいと言った様なものを、全然持っていないと言う事です。その苦労を、何時も自分の心の宮と言うものが立派になって行く事だけが、いうならば楽しみと言った様な感じ。厳密に言えば色々ありましょう。けれどもそういう生き方が進んでおるわけですね。所謂苦労ですね。苦労を全然意としない。
 そこでどう言う事になるかというとです。それこそ一年勝りに苦労というものは、段々なくなって行って、段々おかげ頂いて行く。最近自分方の子供達の事を言ってましたが、もうそれこそ、親勝りちゃこの事だろうかと。どの子もこの子も立派に素直に育って行くと言う事を言っております。その実例を色々話しておりましたがね。だから私は申しました。まあ例えて言うならば、私の信心が法然様の信心なら、あんたは親鸞様のような信心ばいと。私よりか次元の高い所を、通っとる様な感じがするよと言うて。
 私は言ったんですけども、是は褒め言葉でなくて、本当にそう言う所を私共が及ばないものを持っておるです。この人の真似は出来ない言う事です。けれども本当にそうなんです。我が心の宮が愈々大きくなって、立派になりゃお供え物は絶対多うなるち言う。そういう生き方を身につけながらです、信心を進めて行くという生き方。進めて行きよる内には、ここでいっちょいうならば、どこどこさんなっとん回ってくるか、見てくるかと言った様な時があるわけです。それをこうしておるとするなら。
 けれども目的はあそこですから。そこで例えへば一服するとか、道草を食うのではなくて、それはきついけれども、そこん所を泣く泣くでも辛抱しないで、繋いで行くというこの繋ぎ目の所の、その辛抱こそが身に徳を受ける修行と言う事になると、その生き方よりももっと素晴らしい、そういう生き方があると言う事です。と言うてそこを幾ら泣く泣く辛抱をして、信心を続けておっても、今私が読みましたような、教主様のお歌の中に現れて来る様な所に取り組まずしてです。
 只がむしゃらに辛抱して、参り続けておると言うのであっては、おかげはいつも堂々巡りで、いつもそこから脱却したいともがいて、そして願って無理に言うて貰うという程度の事であって所謂前進しない。これでは大きな信心じゃない。これはいわば小さな信心という事になります。御利益だけの信心であっては、いくら毎日信心が何十年続いておっても、それは大きな信心とは言えない。大きな信心が育ってくるということは、只今申しましたような内容を内容としての信心にならなければならないという事です。
   どうぞ。